[3日目]
曇りだが遠くまで見通しがきく天気である。オホーツク沿岸を宇登呂から稚内まで通してレンタカーで北上するのは2度目だが、前回は悪天候で、走行中に前が見えない猛吹雪で危険を感じた区間もあった。
今回は路面に積雪も凍結も少なく走りやすい。逆にそれは冬の北海道らしさを感じないところで、少し残念な気持ちになったりもする(国道以外は積雪、浜頓別以北は凍結していた)。
サロマ湖は凍結して真っ白な大平原になる。学生時代はサロマ湖畔の栄浦にある「船長の家」という宿に連泊した。この宿に連泊して、サロマ湖をクロスカントリーでオホーツクまで滑り、流氷の氷で少しだけウィスキーを飲んで帰ってきた。またスノーモービルのA級ライセンスを取得したり、4輪バギーで遊んだりと、とにかく楽しくサロマ湖で過ごしたことがある。当時は流氷の接岸範囲も広く、氷の一つひとつが大きく迫力があった。
そんなことを思い出しながら、流氷を見るための次のポイントに向かった。
サロマ湖には1ヶ所(正確には2ヵ所か)、オホーツク海とつながっているところがあり、その先端部分から流氷を眺める。竜宮街道と呼ばれる道を先端まで走ると行き止まりになる。その辺りからの眺めである。それなりの流氷を見ることができたが、残念ながら前回ここから見た時のような感動は無かった。
次は湧別のまちを通り、紋別へと走る。紋別のまちに入る手前から海が見えだすが、流氷の量は少ない。紋別では、夜のホテルで食べることにしていた毛ガニを買った。
紋別の市街地を抜け、渚滑(しょこつ)を通過し、まだまだ北上が続く。ちなみに、この渚滑の中心に「渚滑駅前」という名で残っている交差点がある。渚滑線は、1985年に廃止になっているので駅は無いが名称として残ったままになっている。
紋別の次の町は興部(おこっぺ)である。ここには名寄線から興浜南線が分岐する興部駅があった。その思い出を残すために「道の駅おこっぺ」の中に小さな資料コーナー「興部交通記念館」がある。
雄武(おうむ)のまちからもまだ流氷の残りを沿岸部に見ることができた。さらに水平線には流氷が薄く見える。雄武から流氷を見ることができたことを嬉しく思った。
昔は、流氷の接岸日数、接岸範囲も広く、流氷の一つひとつが大きい氷の塊だった。近年はそうでもないような気がする。そんな流氷が接岸することは紋別でも少なくなっているのではないだろうか。昔は、さらに北にある雄武にも気象庁の有人の測候所があったようだ。また、流氷知床半島を回り込み、国後島どのくらい間にびっしりと流氷が来ていて、根室半島の納沙布岬でも迫力ある流氷を見ることができた。気のせいだったかも知れないが、太平洋の釧路まで来ていたような気もする。
枝幸(えさし)のまちに入ってもまだ、水平線には流氷が薄く見えていた。こういうこともあるのかと思った。しかし市街地に入る頃にはもう流氷は見えなくなっていた。枝幸は浜頓別から延びていた興浜北線の終着駅である北見枝幸駅があった。興浜南線と同じく1985年に廃止されている。その興浜北線の資料があるという「オホーツクミュージアムえさし」に行ってみた。ここにはオホーツク地方の歴史や文化の資料を展示されており、思っていた以上に立派だった。興浜北線の資料も少しではあったが展示されていた。
枝幸を出て、次のまちの浜頓別(はまとんべつ)を通過し、猿払村の浜鬼志別から少し内陸に入り鬼志別(おにしべつ)に行った。ここの宗谷バス鬼志別ターミナルには、当時のJR天北線の資料が展示されている。天北線の駅名板が多数あり、なかなか見応えがある。
鬼志別から、稚内市街地に直接行くか、宗谷岬経由とするか迷った。少し遠回りだが、ここまでオホーツク海沿いに走ってきたので、引き続き海沿いに宗谷岬を目指すことにした。
宗谷岬に到着した時は、薄暗くなっていたが、波打ち際には流氷の名残のような氷が敷き詰められていた。ひょっとしたらここまで流氷が来ていたのかと思ったが、海水が凍っているだけかなとも思った。
宗谷岬は、最終日の稚内空港から飛行機に乗る前に再度行くことにしている。
宗谷岬から稚内に向けての最後の区間を走り、稚内市街地に入った。
ところで、新型コロナウィルスの関係もありマスクを手に入れようと、ホテルに着く前に稚内市街地にある複数のドラッグストアを回って探したが全くなかった。網走からもセコマなどのコンビニ含め機会があるごとに探していたが売られていなかった。北海道で感染が確認される前だったが東京では手に入らなかったので、このエリアにはあるかなと期待していたが、東京と同じ状況だった。
(つづく)